終活と占い——不確実な未来と向き合う「自立した使い方」とは

死の話題を書くのは、正直、気が重い。

僕はまだ40代で、2歳半の娘がいて、去年合同会社を立ち上げたばかりだ。死そのものについて語る資格があるとは思っていない。ただ、この2年ほどで、親世代が少しずつ終活の話をするようになり、押し付けずに聞く、ということを僕は学んでいる途中だ。

そして一つだけ、はっきり見えてきたことがある。

死の不確実性に向き合うための「場」を、人はどこかに必要としている。

それが家族との食卓であることもある。主治医との診察室であることもある。宗教者との対話であることもある。——そして、占いの椅子であることもある。

この記事では、占いを否定もせず、勧めもせず、「死の前に大切なことを話す」という機能を、どうやって自分で設計するか、という話を書く。

参照する軸は、アメリカの外科医アトゥール・ガワンデの『死すべき定め——死にゆく人に何ができるか』(原題 Being Mortal、2014年刊、邦訳はみすず書房、2016年、原井宏明 訳)だ。

ガワンデが書いたのは「死に方」ではなく「生き方の続き」

ガワンデはハーバード大学医学大学院の教授で、マサチューセッツ総合病院の外科医だ。The New Yorker の寄稿も長い。医学の立場から、現代医療が「死」を扱うときの構造的な問題を、自分の父親の看取りまで含めて書いたのが『死すべき定め』だった(Gawande, 2014, Being Mortal, Metropolitan Books)。

この本の主張は、一言でまとめるとこうだ。

医療のゴールは「生存の延長」ではない。「最後まで良い生活が続くこと」だ。

現代医療は、死を「失敗」として扱うように設計されてしまった。延命のためにダメージの大きい処置を重ね、結果として苦しみを延ばしてしまう。一方で、ナーシングホーム(介護施設)は安全ばかりを優先して、人をベッドと車椅子に縛り付ける。——ガワンデは、医師として自分たちの加害性をかなり率直に書いている。

彼が対比として紹介するのが、ホスピスケアと緩和ケア(palliative care)の現場だ。延命ではなく、残された時間の質を中心に据えると、何が変わるのか。

その問いに、一つの決定的な答えが、2010年にニューイングランド医学誌(NEJM)に出ている。

Temel 2010——緩和ケアを早く入れると、寿命まで伸びた

マサチューセッツ総合病院の腫瘍内科医 Jennifer Temel らのチームは、2010年、転移性非小細胞肺がんの新規診断患者151人をランダム化した(Temel et al., 2010, NEJM, 363:733-742, doi:10.1056/NEJMoa1000678)。

一方のグループは、標準的な抗がん剤治療に加えて、診断直後から緩和ケアチームの面談を受けた。もう一方は、標準治療のみ。

結果は、当時の腫瘍内科の常識を揺さぶるものだった。

「痛みを和らげる医療」を早くから入れたほうが、生活の質が上がり、抑うつが減り、そして命そのものが2.7ヶ月延びた

ガワンデがこの結果に触れたとき、彼はこう書いた——数字の意味はもう、延命か緩和かという二項対立ではなかった。数字は、「患者の残された時間に何を大事にしたいか、を医師が聞く時間」そのものの価値を測っていた、と。

緩和ケアチームが患者と話すのは、薬の量ではない。「あなたは何を大事にしていますか。何を避けたいですか。残された時間で、何をしたいですか」だ。

この対話が、予後そのものに影響する。

ACP——「話しておく」ことの効果と限界

もう一つ、重要な研究領域がある。アドバンスケアプランニング(Advance Care Planning、以下 ACP)だ。日本の厚生労働省は、これを「人生会議」と訳して普及させようとしている(2018年〜)。

ACP は、自分がもし意思表示できなくなった場合に、どんな医療・ケアを受けたいかを、本人・家族・医療者で話し合っておくプロセスを指す。

近年のランダム化比較試験の系統的レビュー(Jimenez ら, 2018, Journal of Pain and Symptom Management, 56(3):436-459)は、こう結論している。

正直に書くと、ACP は万能ではない。「書類にサインしておけば希望通りの死が来る」という話ではない。

でも、一つだけ確かなことがある。

ACP を経験した家族は、看取ったあとのグリーフ(喪失体験)が軽くなる

——残された家族が、「あれで良かったのか」という問いに苦しむ時間が、話し合っておいた家族のほうが明らかに短いのだ。

これは、死ぬ本人のための制度、ではない。残される人のための制度でもある。

なぜ「死について話すこと」が、これほど難しいのか

ここで、心理学の研究を一つ挟む。

1986年、Jeff Greenberg・Sheldon Solomon・Tom Pyszczynski の3人が提唱した Terror Management Theory(恐怖管理理論、TMT) は、文化人類学者 Ernest Becker の『死の拒絶』(1973)から着想を得た理論だ。

TMT の中心主張はこうだ。

人間は、自分の死を知っている唯一の動物だ。そして、その知識がもたらす恐怖を直視し続けると、人は機能できない。だから、脳は死の思考を意識の外に押し出す防衛機構を持っている。

実験パラダイムの一つに「mortality salience(死の顕在化)」がある。被験者にごく短時間だけ自分の死について想像させたあと、別のタスクをさせると、自分の文化的価値観を守る方向に行動が偏る。自国の国旗を汚した人を強く非難したり、同じ宗教の人を高く評価したりする傾向が、統計的に有意に出る(Greenberg et al., 1990; メタ分析は Burke et al., 2010, Personality and Social Psychology Review)。

つまり、死を意識させられると、脳は「自分が所属する枠組み」にしがみつく

これが、死を目の前にした人が、急に宗教や占いや自己啓発に傾斜する仕組みの、神経心理学的な下地だ。

弱いからではない。脳がそう設計されている。——ガワンデが医療の側で書いたことと、TMT が心理学の側で書いたことは、同じ地図の裏表を見ている。

占いは、この「防衛機構」にうまく噛み合う装置だ

ここで、占いの話にようやく戻れる。

死後を語る占い、霊能者、除霊、先祖供養——日本の終活市場には、こうしたサービスが確実に存在している。大手流通系のエンディング特集から町の占い師まで、需要は絶えない。

僕の立場は、これらの業界を否定しない、だ。

理由は2つある。

理由1: 機能として、意味を与える装置は有効

Temel 2010 の緩和ケアチームがやっていたのは、薬ではなく、問いかけだった。「何を大事にしていますか」「何を残したいですか」「何が怖いですか」。

占い師の対話も、構造的には同じ形をしている。タロットや星読みという道具を挟むことで、当事者が自分の内側にある言葉を言語化しやすくなる。道具は触媒であって、主役は本人の言葉だ。

理由2: 代表社員の自分ですら、ルチルを胸に置いて落ち着いた日があった

僕はルチルクォーツを持っている。占いの館にも行ったことがある。娘が生まれる前の1年間、脱SNSで2年こもっていた時期にも、占い師の椅子で、自分でも気づいていなかった言葉を聞いたことがある。——あれは、助けになった。

だから、占いを「低次のもの」と見下す書き方を、僕はしない。

ただし、ここからが本題だ。

本末転倒が起きるのは、「話す相手が占い師だけ」になったとき

ガワンデの本を読んで、僕がもっとも腑に落ちたのは、こういう一節だった。

家族は、話さないまま看取ってしまったあとに、一番長く苦しむ。

そして、Temel 2010 の数字が示したのは、誰と話すかで、残された時間の質と長さが変わる、ということだった。

占いの椅子で、死の恐怖を一時的に鎮めることはできる。霊能者の言葉で、「故人はあちらで元気にしている」と聞いて安心することはできる。TMT が示すとおり、防衛機構は機能する。恐怖は一時的に下がる。

——でも、家族の食卓での会話は、それでは替えられない

延命をどこまで望むか。最期をどこで迎えたいか。残したい手紙や仕事は何か。子に何を託すか。——これらは、自分以外の誰かが代わりに決めることになる問いだ。占い師は、代わりに決める立場にない。医師も、家族の同意なしに動けない。

本末転倒が起きるのは、ここだ。

残されるのは、家族の長いグリーフと、「あれで良かったのか」という問い、だけになる。

占いが悪いのではない。占いだけで終わらせる構造が、本人と家族の両方を苦しめる。

「両方使っていい」——OwnSoul の結論

だから、この記事の結論はシンプルだ。

占いは、使っていい。ただし、占いだけで終わらせない。

具体的には、こう並べる。

  1. 占い師・スピリチュアルカウンセラーの椅子で、自分の内側にある言葉を引き出す(脳内の雑音を少し消す)
  2. その言葉を持ったまま、家族の食卓に戻る
  3. 主治医や訪問看護師がいるなら、医療者と一緒に話す(日本の医療現場でも ACP の保険点数が2018年度から評価されている)
  4. 必要なら、書類に残す(リビングウィル、エンディングノート、公正証書)

占いは、入口だ。家族との対話と医療者との対話と書類は、出口だ。入口だけで部屋を出たつもりになると、部屋には入れていない。

これは、占い業界への批判ではない。むしろ占い師の多くは、「家族とも話してくださいね」と最後に付け加えている。誠実な実務家は、自分の領分の外側を知っている。

問題は、利用する側の僕たちの使い方だ。

2歳半の娘と、親世代の終活と、脱SNSの2年

最後に、個人的な話を少しだけ書く。

親世代が終活の話をし始めたとき、僕は最初、聞くのが気まずくて、話題をかわしていた。「まだ元気なんだから」と。——これが、TMT が言う防衛機構だ。僕自身の脳が、死の話題を押し出していた。

押し出しているうちに、親はその話を、別の場所でしていた。占いの場だったこともあれば、信頼する近所の人だったこともあった。話す場はあったけれど、息子である僕は、その場にいなかった

脱SNS2年の途中で、このことに気がついた。騒音を消したら、聞こえなかった声が聞こえるようになった。——これも、この2年で得た一次体験だ。

それから、押し付けずに聞く、ということを、少しずつ学んでいる。結論を急がない。メモを取らない。ただ、食卓で聞く。

娘が2歳半になって、彼女が何十年か先に同じ立場に立つことを考えると、僕が今のうちに家族で「話しておく練習」をしておくことは、彼女への贈り物でもある。

占いを入口にしていい。ルチルを胸に置いていい。医師の前で泣いていい。

ただ、家族の食卓にも、戻ってきてほしい

結びに

『死すべき定め』でガワンデが繰り返すのは、「より良い死」という目標ではなく、「最後まで良い生活」という目標だった。

最後まで良い生活とは、意味を与えられる生活、のことだ。意味は、ひとりで見つけてもいい。占い師と見つけてもいい。医師と見つけてもいい。家族と見つけるのが、一番取り戻しづらく、一番効く

占いを否定しないのは、意味を与える装置を否定しないためだ。占いだけで終わらせないのは、意味を家族に手渡すまでがこの作業だからだ。

脳内の雑音を消したあとに、聞こえてくるのは、多くの場合、身近な人の声だ。

それを聞ける席に、自分で戻れるようにしておきたい。


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